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毎回通るたびに撮影したいんだけどそういう時に限ってカメラを持っていない!
という場所があります。
電柱が蔦で覆われた姿が本当に好きで、それはどれだけ機械を作っても植物にはかないやしないのだなと実感するからです。
岩の上の苔からでも、コンクリートの隙間の僅かな土だまりからでも、
やつらは生き抜いてきます。非常に強くて好きです。
発電所も個人的にものすごく好きです。雷を鑑賞するのが好きだからというのもあるかも。
話がすっ飛びますが同僚と漢字の書き順の話しをしていて、自分の書きかたはことごとく間違いでした。
歌も好きなように覚えるしそれと同じ様なことか…と非常に納得。
肉って外側から包み込むように書くんですね。いつも中身から書いてました。
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※依頼があって作ったもの。
仕事中に考えていたことがちょっとまとまったので書いておきます。
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被害者になりたがる意識、というものについて。
大抵のことは本人と周囲の要因(環境とか)で原因半々だと思っています。
嫌なめにあった時に、【自分】が何かに原因をもとめ、八つ当たりをするとしますが、
「あの先生は私のことを分かってくれない」
「親が僕の夢を邪魔する」
「あの人がいるばかりにうまくいかない」
こんな感じに、周囲のせいにするとします。
自分以外の悪いもの(誰か)のせいで、やっていることがうまくいかない。
いやいや自分のせいだよ、と責めるひともいますね。
「私があのときああしていれば」
「全部僕が悪いんだ、僕のせいだ」
痛々しいくらいに自分を責めるので、「そんなに自分を責めないで」と
周りが慰めることが多いかなと思います。
でもこれ、実は自分じゃなくて、「悪い、うまくできない自分がいて」、
「頑張ってる、一生懸命やってる自分」に責められている。
という風にも取れませんか。
最初に書いたとおり、うまくいかないことはどこかに要因があると思いますし、
それは全て自分のせいか他人のせいかといったら半々だと思っています。
うまくいかなかったことで、うまくいくこともあるんですけど、
目先の「うまくいかない」ことに気をとられるから気づけない。
ちょっと話がそれますが、今の親ってあんまり子供を怒らないんだなあと思います。
勘定の済んでいないお菓子を開けて、店の中で食べはじめる子供を、自分はおかしいと思いますが、
注意する人が「悪い人」になってしまいます(その親子のほうではね)
否定する人、とがめる人が、悪い人で、加害者なんですね。
加害者に勝つには被害者になって、同情を引くのが一番良いと、そんな感じ。
なので、人はすすんで被害者になりたがる。
他所に要因を求めて、フラストレーションをぶつけて、それを排除していくってことを繰り返すのかなと。
要因が自分のなかにもあった場合はどうでしょう?
人を信じられなかったり、
助けを求められない性分だったり、
意地を張り続けていたりする、
などなど。
被害者であれば、人の同情を引けますし、構ってもらえます。
とても優しくしてもらえます。その「被害」が風化しない限りは。
その理由がある限りは、自分で自分を甘やかすことが出来ます。
なので、あなたはいつまでも「かわいそうで」「だめな人」でいないといけません。
そのぐるぐるループからちょっと出てきてみませんか。
そんなところにいなくってもいいんじゃないですか。
うまく出来なかったことで責められてる【じぶん】を、【だれか】を、
ちょっと許してあげてほしいなあ、と思うのです。
***
たとえば今日買えなかった雑誌も、
明日になったら親が買ってきてくれていたり(しかもお菓子つき!)
行こうと思っていた場所にいけなかったことで、
にわか雨に濡れなくてすんだり。事故を避けられたり。
どっかでうまくまわっているのです。
今日で世界が終わるわけじゃないのです。
忘れた頃にお楽しみつきでやってくると思えば、なんだか楽しくなってきますよ!
お祝いにフォトショで描いたものでした。
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よく目につく言葉やフレーズはメッセージかもしれませんので、ちょっと調べてみたりしても良いかもです。
自分は最近「インナーチャイルド」という言葉に非常に目がいったのですが、
周囲に与えてばかりで餓えている、泣き叫んでいる、ということがわかってなんだか申し訳なくなったりしました。
与えることは無償の行為だと思っていますので、見返りは求めるべきではないと思いますし、
見返りを求めた時点でその行為における「気高さ」というものはなくなってしまうのでは、とも思います。
ただやっぱり、自分のなかでは「なにかを与えられたい」と思っていたのでしょうか。
それは感謝であったり、必要としているという言葉であったり、色々あるでしょうが、
最も強い欲求は何かと考えた時に、「認められたい」であると思いました。
他人と比べられてばかりで、褒められることのすくない子供でした。
まだ足りないのか、何を与えればよいのか。もうなにもない。ないけれど搾り出さねばならない。だって欲しがる人がいるから。
だいぶ磨り減っていたようです。
自分はまだまだ、高みへ飛び出したい。誰かの妬みや何やかやも知らぬ場所で、高く高く飛んで、その景色を見たい。
そのためにお休みすることも必要なのでしょう。
誰も見たことのない世界。誰も知らない場所。誰も思いつかないようなもの。
求めて表現したくてやまないのはそういうものです。
他の誰も持つことのない意識を、自分は表現してみせたいのです。
以上、ひとりごとでした。
たまに呟いていきますので、何かありましたらコメントにどうぞ。